次の仕事をどうするか。何をして暮らすか。仕事には仕事以上のものは求めない。とは言え、新生活の習慣となる要素であることも事実である。私の回復の為には早急なライフスタイルの変更が望ましい。とはいえ、だからこそ可能な限り慎重に選びたいというのが本音でもある。
幼い頃から虐待問題に関心を持ってきた。自分自身が虐待を受けた子どもであったと気付いた現在ですら、何かそういう、困っている子供の役に立てる仕事はないかと、つい考えてしまう。家庭に関するトラウマだらけで心身共に病んでいて、その上経済力もご察しな独身者では、人助けなんて例え仕事でも現実的では無いかもしれないが……。仕事と言う以上、大概どれでも人助けの面があるとは、思っているが……。
「児童福祉」やら「養護施設」やら検索している内、「里親」について紹介しているページに辿り着いた。衝撃的だったのは、或る夫婦の里親体験の話である。初めて得る知識も多く、素人である私にはまとまった感想を持ちづらい箇所もあった。しかし、私が素直に感動できたのは筆者の知識量とか、そういった物理的な部分ではない。
「自らした決断に対し責任を持つ態度」、それが私の心を揺さ振った。
仕事ではそれが出来る人でも、なぜか自分の子どもを育てる時にはまるで気にならないという人々が居る。愛情さえあれば子どもは勝手に健全に育つと本気で思い込んでいる。それが愛情とは呼べもしないことには気付かない。親となった自分自身こそが「私にもお母さんの愛さえあれば」と不幸な幼少期から思い込み続けた結果として持つようになった世界観であるとは、まさか本人は思い至らない。少なくともやってる最中は思わない。たかだかそんなもので殴られ無視され、自身が不当に扱われているとは、子どもだって思わない。
私は先述した通りの独身者で、子どもを持った経験も無い。しかし気質は上述の”親”と似通っている”子”である。幸か不幸か、歪んだ生い立ちによる思い込みがどれだけ他者を蔑ろにするものか、私には気が付く機会を与えられたが、それではどのように変われば良いのか、どこを目指して生きていけば良いのか、現在はすっかり分からなくなった。
「自らした決断に対し責任を持つ態度」、これは指針になりそうだと感じる。愛だの恐怖だの気持ちを言い訳にするのではなく、適切に責任を果たす行動を起こす。行動を変える。
こんなこと考えている内は、やはり仕事に仕事以上を求めている。辟易してしまう。